タグ: 今世の宿題

  • いま目の前にあることが、きっと今世の宿題なんだと思う

    いま目の前にあることが、きっと今世の宿題なんだと思う

    こんにちは!あの世とこの世合同会社の代表社員、中山彰仁です!

    今世の宿題を、あなたはもう始めていますか?

    天命や今世の宿題なんて言うと、ちょっと構えてしまうかもしれませんね。

    でも実は、それは何か特別な試験や使命のようなものではなく、ただ毎日の中に静かに溶け込んでいるものなのかもしれません。

    言葉にしようとすると、どこかズレてしまうような感覚があります。
    というのも、それは高い次元(あの世)で自分の魂が決めてきたテーマであって、私たちが今持っている言葉だけで完全に説明できるようなものではないからです。

    それでもあえて言うなら、「いま目の前で起きているすべて」が、その宿題につながっている。
    そう思って一日一日を丁寧に過ごしていくことが、最もシンプルで誠実な向き合い方かもしれません。

    天職に就いて働いている時間も天命。
    休日にボーっとして仕事や人生を振り返って氣づきを得ている時間も天命。

    ひとつ、自分に問いかけてみてください。

    「もし、今日が人生最後の日だったら、私は後悔しないだろうか?」

    そんな問いに胸を張って「はい」と答えられないとしたら、もしかすると、まだ“自分の人生”を生き切れていないのかもしれません。

    誰かの期待に応えるばかりの毎日。
    何となく流されてしまう選択。
    どこかで「こんなはずじゃなかった」と感じている日々。

    それらはすべて、今世の宿題に気づかせるために与えられているメッセージかもしれません。

    私自身、これまでにたくさんの「悪いできごと」を体験してきました。

    でも不思議なことに、そうしたことの後にこそ、大きな転機や学びがやってくることが多かったのです。

    まるで「塞翁が馬」のように、何が幸いで何が不幸なのかなんて、簡単にはわからないものですね。

    だから私は、目の前のことに一喜一憂せず、「これも宿題の一部なんだ」と思って、天の流れに身をゆだねるようにしています。

    あなたの今世の宿題は、きっとあなただけのもの。

    難しく考えすぎずに、まずは「今、目の前にあるもの」と丁寧に向き合ってみませんか?

    それだけでも、今世の宿題の答えに少しずつ近づいているはずです。

    そんな悠長なことは言ってられない。
    今すぐに体験するすべてのできごとを今世の宿題にしたい!とお考えの方は、お問い合わせください😊

    お問合せは《こちら》から

  • 適職と天職――お金か、人生か?

    適職と天職――お金か、人生か?

    こんにちは! あの世とこの世合同会社の代表社員、中山彰仁です!

    「今の仕事は好きですか?」
    こう問われて、胸を張って「はい」と言える人は、どれほどいるでしょうか。

    世の中には、「適職」と「天職」という二つの言葉があります。似ているようでいて、その意味するところは大きく違います。

    適職とは、「現世利益」にかなう仕事。

    自分のスキルや特性に合っていて、無理なくこなせて、安定した収入が得られる。

    いわば、“食べていくための仕事”です。

    あなたにとって稼ぎやすい仕事、とも言えそうです。

    適職に就くことで、経済的な不安は減るかもしれません。

    ですが、それが心からの満足や喜びにつながるとは限りません。

    天職とは、「生まれてきた目的地を果たす」仕事

    お金の多寡に関係なく、その仕事をしているだけで自分の存在が満たされる。

    誰かに頼まれなくても、自然と手が伸びてしまう。

    そんな仕事が、天職と呼ばれるものです。

    天職に出会うと、「仕事=ストレス発散」という逆転現象が起こります。

    仕事をしている方が楽しくて、何もしない方がストレスになる。

    寝る時間を削ってでもやりたくなる。

    そんな感覚です。

    疲れるけれど、気持ちの良い疲労感。

    やればやるほど、心の奥底に活力が湧いてくる。

    仕事は一週間のほとんどの時間を占めています。

    そんな長い時間をストレスなく過ごし、しかも可処分所得が安定する。

    まさに、正のスパイラルといったところでしょうか。

    適職から天職へスライド転職する。

    とはいえ、最初から天職に出会える人は少数です。

    むしろ多くの人は、まず「適職」を見つけようとするでしょう。

    そこで経験と自信を積み、自分の内なる声と向き合う中で、少しずつ天職の輪郭が浮かび上がってくる。

    そして、タイミングを見て天職へと舵を切る――それが現実的なステップではないでしょうか。

    適職は生きるための手段。
    天職は生きる意味そのもの。

    どちらが大切かではなく、両方をどう繋ぐかが、これからの時代の働き方なのかもしれません。

    最後に、天職鑑定の結果で出た職業は、必ずしも仕事にしなくても大丈夫です。

    収入を得ることとイコールではなく、それを通じて体験することが、今世の宿題を果たすことに繋がっているからです。

    いきなり天職に就くのが難しい人は、まずは鑑定をしてより自分に合った環境に転職してみてはどうでしょうか?

    お問合せは《こちら》から

  • 「世界は変わる」と信じているあなたへ――陰謀論と末法思想の交差点で

    「世界は変わる」と信じているあなたへ――陰謀論と末法思想の交差点で

    こんにちは! あの世とこの世合同会社の代表社員、中山彰仁です!

    「この世の中、やっぱりおかしい」と感じたことはありませんか?
    正直に言えば、私にもあります。
    ニュースを見ても、誰かの言葉を聞いても、どこか虚しく、信じられない。そんな時に、「真実は別にある」と語る陰謀論や、「いまは末法の時代だ」と説く宗教の言葉に、心を奪われてしまうことがあります。

    一見、まったく違うもののように思えるこれらの思想には、意外と似た構造があります。
    どちらも「この世界は堕落しており、大きな力によっていずれ正される」という希望を抱かせる点で共通しているのです。

    とある人々は、「ディープステート」と呼ばれる支配層の存在を暴き、正義の力が勝つ日を信じています。
    末法思想の信者は、仏法が廃れた時代の中で、いつか救いがもたらされることを信じています。

    その信念の奥には、「自分は真実を知っている」「他の人たちはまだ目覚めていない」という静かな優越感があります。
    そして、世界が変わるその日を、どこかで“待っている”のです。

    でも──本当に、それで世界は変わるのでしょうか?

    SNSで情報を拡散することも、題目を唱えることも、悪いことではありません。けれどそれが「誰かがなんとかしてくれる」ための祈りでしかないのなら、それはやはり“他力本願”ではないでしょうか。

    社会を変えるのは、正義のヒーローでも仏の奇跡でもありません。
    日々の選択、小さな行動、自分の言葉。その積み重ねが、ゆっくりと世界を動かしていくのです。

    「誰かが世界を変えてくれる」と信じるより、「自分が変わることで、世界が少しずつ変わっていく」と思えるほうが、きっと確かです。

    自分が何もしなかったら、世界が変わっても、何もしない人の日々はあまり変わりません。

    きっと、新たな不満や不安を見つけ、今度は変わった世界のことをおかしいと感じるようになるでしょう。

    おかしいのは、何も行動しないのに人生が変わると思い込んでいる人なのですが。

    ただ、闇雲に行動していても人生の方向性が狂っていたら、おかしな方向に進みかねません。

    ですから、自分の人生を変えようと思ったあなたは、まずは人生の方向性を戻すことから始めませんか?

  • ヒポクラテスの誓いはどこへいった?

    ヒポクラテスの誓いはどこへいった?

    こんにちは! あの世とこの世合同会社の代表社員、中山彰仁です!

    全ての看護師を責めるつもりは毛頭ありません。

    ですが、こういった言動を取る看護師がいたということを、私は忘れません。

    「点滴、やめたらいい」

    その言葉を発したのは、病床に伏す高齢者を看病していたお客様の祖母に対して、看護師が強い口調で投げかけたものでした。

    すでに心身ともに疲弊していたお客様の祖母は、その言葉に従うしかないという気持ちに追い込まれました。

    そして、点滴を中止した当日――お客様の祖父は亡くなりました。

    この出来事を前に、私はある言葉を思い出さずにはいられませんでした。

    「ヒポクラテスの誓い」――医療従事者が命と向き合うとき、その根幹に据えるべき倫理的指針です。

    この誓いには、次のような一節があります。

    「私は、自分の力と判断の限り、患者の利益のために治療を行う。」

    ヒポクラテスの誓い

    また、こうも誓われています。

    「人の命を軽んじることなく、患者の苦しみをやわらげるため、心を尽くす。」

    ヒポクラテスの誓い

    看護師は、医師とともに患者の命に寄り添い、痛みや不安を和らげる存在であるはずです。

    しかし今回、その言葉は、疲れ切った家族の心を突き刺し、命をつなぐ可能性のあった医療行為を断たせる結果となりました。

    もちろん、延命治療の是非は簡単に白黒つけられるものではありません。

    時に、患者本人や家族が「自然な最期」を選び取ることもあります。

    しかし、その選択は、本当に自分の意思で、納得の上で決断されたものでなければなりません。

    もしもその選択が、看護師の不用意な一言により、追い詰められた心の中でなされたものであったとしたら――それは、「ヒポクラテスの誓い」に反する行為であり、命の重さを踏みにじる結果を招いたといえるのではないでしょうか。

    私たちがこの出来事から学ぶべきことは、「言葉がどれほど強い力を持つか」ということです。

    特に医療従事者の言葉は、患者やその家族の心に、深く、重く響きます。

    だからこそ、その一言一言が、命と心を守るものであるよう、細心の注意が求められるのです。

    命と向き合う者が、決して忘れてはならないこと。

    それは、「人の命に対する畏敬の念」と、「言葉の力を自覚する責任」ではないでしょうか。

    ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、私は医師と看護師から、「意識が戻ったら奇跡」と言われていたお客様に対し、一時間氣功施術をしたらお客様の意識が戻ったという体験があります。

    この時も、医師や看護師のことを信用しきれないと思っていました。

    私自身の皮膚疾患や腎不全に対し、医療行為では何もできず、どうしたら改善するかの助言もできない医師もいました。

    この記事を読んだ人の中には、ひょっとしたら、寝たきりで死にゆく命なのだから、点滴を抜いても抜かなくても変わらないのではないか。

    そんな風に思った人がいるかもしれません。

    ですが、私たちは今世の宿題を果たすために生きています。

    他人からみれば寝ているだけで何もしていない時間であっても、ご本人にとっては、過去を振り返り、過去から学ぶ貴重な時間だった可能性があります。

    そう。

    私たちの魂磨きの修行は時間が長ければいいというものではありません。

    ひょっとしたら、死を覚悟してからのわずかな時間の方が、漫然と何年も生きる時間よりも、濃厚な修行になっている可能性が考えられます。

    ですから、意思の疎通ができたお客様の祖父は、親族と最後のやりとりをすることで、修行のラストスパートができたかもしれません。

    その時間が奪われてしまったことが、私には残念でなりません。

    お問合せは《こちら》から

  • 理想を捨てたとき、人生はうまくまわり始める

    理想を捨てたとき、人生はうまくまわり始める

    こんにちは! あの世とこの世合同会社の代表社員、中山彰仁です!

    「夢や目標を持とう」「高い理想を掲げよう」
    かつて、そんな言葉がよく聞かれました。もしかしたら、あなたも一度は信じたことがあるかもしれません。

    でも、今の時代、それを鵜呑みにしている人は少なくなってきたように思います。
    理想を追いかけすぎることで、逆に苦しくなってしまう人が増えているからです。

    では、なぜ“理想を捨てる”ことが、人生をうまくまわすコツなのでしょうか?

    それは――
    そもそも、理想そのものがこの世に存在しないからです。

    この世界は、魂を磨くための「修行の場」
    私たちの魂は生まれる前に、今世で向き合う課題やテーマを自ら選んできています。
    日々の出来事の中で、それに取り組んでいくことで、デコボコだった魂が少しずつまあるく整っていくのです。

    だからこそ、“何も問題のない理想の世界”なんて、そもそも用意されていないんです。

    私たちが生きるこの社会も、デコボコな魂を持つ人間が作った不完全なシステムでできています。
    完璧なルールや社会が存在するなら、今ごろこの世の問題はすべて解決しているはず。
    でも、そうじゃない。
    それは、この世に「魂の成長」が必要だからなんです。

    仮に、あなたの思い描く理想の◯◯が手に入ったとしましょう。
    最初はきっと、嬉しさや満足感に満たされるでしょう。

    でも…その気持ちは、ずっとは続きません。

    人間には「欠けているもの」に自然と目が向く習性があります。
    俗に言う、ネガティビティ・バイアスというものですね。
    どんなに完璧に見えるものでも、ほんの少しの欠点を見つけてしまう。
    「99%満たされているのに、あと1%が気になる」
    そんな経験、ありませんか?

    そうなんです。理想って、追いかければ追いかけるほど、たどりつけないんです。
    たどり着いたと思ったら、次の不満が生まれてくる。
    だから、理想を追い続ける人生って、実はとても苦しいんですよ。

    しかも厄介なことに――
    理想を追いかけていると、いつの間にか“理想からも追いかけられる”ようになるんです。

    たとえば婚活。
    「理想の相手が見つからない」と言う人ほど、相手に求める条件が厳しく、自分自身のことはあまり見つめていなかったりします。

    相手に高い理想を求めるのは自由です。
    でも、その理想の相手が、あなたを選ぶとは限らない。
    これは、ちょっと冷静になればすぐにわかる話ですよね。

    理想を求め始めるとキリがありません。
    しかも、叶わなかったときに感じる失望感は大きく、心に深いダメージを与えます。

    そんな不安定なゲームに、わざわざ挑み続ける人生。
    それって、ギャンブルのようなものだと思いませんか?

    理想が手に入らないことに苦しむくらいなら、
    最初から「これだけは譲れない」という最低限の条件だけを持つ方が、人生はうまくいきます。

    たとえば――
    「暴力的な人は絶対に嫌」とか「お金の管理がまったくできないのは無理」とか。
    あなたが本当に受け入れられないことだけを“除外条件”にして、他はある程度受け入れていく。

    そうやって、プラスを求めるのではなく、マイナスを減らす生き方が、実はとても賢いやり方なんです。

    それでも、何度も同じような失敗や不幸が続く…。
    そんなときは、もしかしたら“霊障”を受けているのかもしれません。

    この世が魂磨きの場であるとはいえ、本来なら経験する必要のない苦しみに見舞われている人もいます。
    そういうときは、神事を受けて、自分本来の人生の流れに戻すことも、とても大切です。

    理想を手放すことで、あなたの魂はより自然な形で成長していきます。

    無理に完璧を目指さなくていい。
    欠けているからこそ、人は人として磨かれていくのです。

    お問合せは《こちら》から

  • “幸せ”がゴールだと思っていたあの頃の自分へ

    “幸せ”がゴールだと思っていたあの頃の自分へ

    こんにちは! あの世とこの世合同会社の代表社員、中山彰仁です!

    ネットやSNSのおかげで、私たちは無限に近い情報を手に入れられるようになりました。
    でも、そのほとんどは——私にとって、正直どうでもいいことばかりです。

    なぜなら、目の前で起きていないこと、自分が体験することのない出来事に、本質的な意味なんてないから。

    それでも、人はなぜ、そんな「意味のない情報」に夢中になってしまうのでしょうか?

    私自身の過去を振り返ると、その理由がはっきりわかります。
    ――現実から逃げていたんです。

    どれだけ知識を詰め込んでも、行動しなければ現実は一歩も動かない。
    頭だけで“わかったつもり”になっても、目の前の苦しさは変わりません。

    たとえば、仕事がツラいなら、転職するとか、部署を変えるとか、何かしら行動すればよかった。
    でも当時の私は、それすらせずに毎日同じ日々を繰り返していました。

    「人生の秘密を知れば、いつかハッピーな未来がくるはず」

    そんな幻想を追いかけるばかりで、現実を直視できなかったんです。

    じゃあ、逆に「意味のある情報」って、どんなものでしょうか?

    それは、自分の“今”に関係あるもの。
    つまり、目の前の現実にしっかりと結びついている情報です。

    仕事でミスして落ち込んでいるなら、「どうすればミスを減らせるか?」を考えるべきだった。
    苦手な同僚がストレスなら、「その人に反応しないコツは?」を探して行動すればよかった。

    つまり、イヤだと思っている現実にちゃんと目を向けて、その原因をひとつずつ改善していく。
    それこそが、人生を少しずつ変えていく本当の力です。

    「でも、スピリチュアル的な方法で、一発逆転できるんじゃないの?」

    そんなふうに思ったこと、私にもあります。

    でも、たくさんのスピリチュアルを見てきた今、思うのは――
    結局のところ、それもただの現実逃避で終わってしまうことが多いということ。

    確かに「物事のとらえ方」が変われば、心はラクになります。
    でも、目の前の現実そのものが都合よく変わってくれることは、ほとんどありません。

    じゃあ、どうしたら人は「幸せ」になれるんでしょうか?

    この問いに、私はこう答えます。

    人は、幸せになるために生まれてきたんじゃない。
    なぜなら、この世は「魂を磨くための修行の場」だからです。

    私たちの魂は、いろんな経験を通じて成長するために、あえてこの不完全な世界に生まれてきた。
    だから、不幸なできごとにも、実はちゃんと意味があるんです。

    そして面白いことに、不幸を体験した人ほど、ちょっとした幸せを強く感じられる。
    幸福度を「80→90」に上げるより、「-10→10」にする方が簡単です。

    たとえば、満腹で高級ワインを飲むよりも、運動後に水道水を飲む方が、よっぽど「うまい!」と感じる。
    そういうシンプルな仕組みなんです。

    だから、もし今、現実から目を背けている自分に気づいたら――

    まずは目の前の「イヤなこと」にしっかり目を向けてみてください。

    そして、それをどう改善していくか?に、時間とエネルギーを使ってほしい。

    もちろん、修行の場であるこの世界では、改善すればまた新たな課題がやってきます。
    一度幸せになっても、また別の「試練」がやってきて、幸福度が下がることもある。

    でも、その課題をひとつひとつ乗り越えていけば、
    確実に「幸福の平均値」は上がっていきます。

    気持ちの切り替えも早くなり、不幸を感じる時間が短くなる。
    その分、感謝したり、幸せを感じられる時間が増えていくのです。

    結局、こういうことなんだと思います。

    この世は修行の場。
    だからこそ、苦しみとちゃんと向き合うことで、結果として「幸せ」でいられる時間が増えていく。

    本当の幸せは、どこか外にあるんじゃなくて――
    目の前の「イヤな現実」の中に、ちゃんと隠れている。

    だからこそ、今世の宿題を果たしていきましょう。
    それが、自分がこの世に生まれてきた意味を見つける道になるのだと思います。

    お問合せは《こちら》から

  • 大学って本当に必要?社会に出てからわかるリアルな答え

    大学って本当に必要?社会に出てからわかるリアルな答え

    こんにちは! あの世とこの世合同会社の代表社員、中山彰仁です!

    「大学はペテン師養成機関だ」
    そんな極端な言い方をすると驚かれるかもしれませんが、あえて言葉を選ばずに言うと、私自身はそう感じた時期がありました。

    もちろん、すべての人にとって大学が無意味だとは思いません。
    でも、「大学に行くのが当たり前」という前提のまま進んでしまうと、あとで「あれ?これは自分の望んでいた道じゃなかったかも」と思うことがある。そんな体験をした一人として、伝えたいことがあります。

    勉強したことが、そのまま仕事に役立つわけじゃない

    大学で学ぶ内容と、実際の仕事は思った以上にかけ離れています。
    企業が求めているのは「即戦力」。でも、4年間の講義やレポートだけで、それに応えられる力が身につくことはほとんどありません。

    では、なぜ大学に行くのか?
    「とりあえず進学しないと不安だから」「周りがみんな行くから」そんな理由で通う人も多いのではないでしょうか。

    大学教授は“研究のプロ”であって“現場のプロ”ではない

    経済学部の教授が、必ずしも経営の達人でも投資の成功者でもないように、大学で教える人たちが実社会で活躍しているわけではありません。
    彼らは、いつか役に立つかもしれない研究を地道に積み重ねる“知のオタク”。その在り方を否定するわけではありませんが、それが今すぐ現場で役立つかというと…疑問が残ります。

    「じゃあ、大学って何のためにあるんだろう?」

    その答えのひとつは、「教養を広げるため」。
    言い換えれば、“趣味の幅”を広げる場所とも言えるかもしれません。

    面接とは、「わかったフリ」を売る場所?

    大学で学んだことをアピールしても、面接官が見るのはそこだけじゃありません。
    「この人、会社に合いそうだな」「空気が読めそうだな」そんな感覚的な判断が、意外と大きな要素だったりします。

    つまり、仕事の適性ではなく“印象”が重視される。

    本音を隠してでも、相手に合わせる力――
    それが社会で求められる「コミュ力」であり、それは大学でなくても鍛えることができる力です。

    「大学に行かない」という選択肢

    世の中には、大学に行かずに実践の場で力をつけている人もたくさんいます。
    企業の研究部門で素晴らしい成果を出している人もいれば、現場で経験を積んでプロになった人もいます。

    そんな人たちを見ていると、「大学に行かなくても、道は開けるんだ」と気づかされます。

    もちろん、大学が合う人もいます。
    でも、「あなたにとって本当に必要なのか?」と一度立ち止まって考えてみてほしいのです。

    私にとっての高学歴は、“重たい肩書き”だった

    正直に言うと、私は大学に行ったことで得たものよりも、失った時間やお金のほうが大きかったと感じています。
    「4年間、そのお金と時間があれば、どんな経験ができただろう?」と考えずにはいられません。

    それは決して、大学そのものが悪いという意味ではありません。
    自分にとって必要な選択だったかどうかを、もっと早く真剣に考えていればよかった――そう感じているのです。

    遠回りしてきた私だからこそ、伝えたい

    少なくとも私は霊障によって仕事運が塞がれていたため、仕事全般でとても遠回りしたと思います。

    「何のために生きているのだろう?」
    「このままこの人生が続くなら、今すぐ死んでも同じかもしれない」
    「人生、遠回りばかりしてきたな」
    そんなふうに感じることがあるなら、それはきっと“方向を変えるチャンス”なのだと思います。

    今からでも遅くありません。
    あなたが本当に歩みたい人生へ、舵を切ってみませんか?

    お問合せは《こちら》から

  • “自分らしさ”という名の“反抗期”

    “自分らしさ”という名の“反抗期”

    こんにちは! あの世とこの世合同会社の代表社員、中山彰仁です!

    「自分らしく生きる」

    そんな声をよく聞きます。
    でも実のところ、「自分らしさ」なんて、そもそも幻想なのかもしれません。

    私たちは、日々他者からの情報に触れて生きています。
    SNS、本、テレビ、誰かの発言…。
    それらに影響されない「完全に自分だけのオリジナル」なんて、ほとんど存在しない。

    これこそが“自分らしさだ”という気持ちさえも、実はどこかで見聞きした何かのアレンジにすぎないのです。
    そこに気づけないと、自分に自信が持てないまま、ずっと「これじゃない」と感じ続けてしまう。

    反発だけで生きるのは、思春期なら通用します。
    でも、大人になってからの「反抗期」は、時に現実逃避に変わってしまう。
    「自分らしく生きたい」と願うあまり、何の成果も出せないまま、高額なセミナーや情報商材に手を出してしまうこともある。
    それは、自分の限界に目を向けずに、まだ何か賭けられる“可能性”があると信じたくなる、心のギャンブルなのかもしれません。

    けれど、本当の「自分らしさ」とは――
    社会との折り合いを、自分なりに見つけていくこと。
    無理をして合わせる必要はありません。
    ただ、今の自分と今の環境が噛み合っていないと感じるなら、変えるべきは「自分」か「場所」か。そのどちらかです。

    自分に合った場所を探すこと、動いてみること。
    それは立派な選択であり、現実と向き合うという勇気ある行動です。

    他人や環境が勝手に変わってくれるのを待つのは、子どもの発想です。
    大人である私たちは、「自分と社会の距離感」を自分で調整していく責任がある。
    社会に頼りすぎず、でも切り離されすぎず。
    それは、野性に戻らず、ちゃんと人間として生きていくためのバランス。

    「自分らしく生きる」とは、
    自分の居場所を、自分の足で見つけにいくことなのかもしれません。

    そうは言っても、自分なりに最善を尽くしてきたのに空回りしている。

    悪縁ばかりで状況が改善しているように感じられない。

    そんなあなたは、霊障によって仕事運や人運が塞がれているかもしれません。

    一刻も早く霊障を解消し、あなたが進むべき人生の方向性へと向かいましょう。

    お問合せは《こちら》から

  • ふわっち刺殺と戦国時代2.0

    ふわっち刺殺と戦国時代2.0

    こんにちは! あの世とこの世合同会社の代表社員、中山彰仁です!

    令和は、世の中の流れが戦国時代に逆戻り。

    ただし、文明は発展したままですので、戦国時代2.0としましょう。

    令和に入ってからの日本はどうでしょう。

    なぜか罪に問われなかったり、無罪放免になる人間がいます。

    その一方、泣き寝入りしている人は少なくないことでしょう。

    つまり、国の法としての機能が適切に機能していない。

    そんな感じがしています。

    では、国の法が機能しなくなったら、どうなるのでしょう。

    戦国時代は各地域で武将が統治を行い、全国統一がされていませんでした。

    ですから、その地域の法律は、法律というより地域の権力者が決めていました。

    さて、戦国時代(中世)における裁判の一つに、決闘裁判というものがありました。

    原告と被告の両当事者が決闘を行い、勝者が正義と認められていたそうです。

    さて、先日、YouTuberが刺殺された事件について取り上げてみましょう。

    女性YouTuberはじゅうぶんな収入を得ていたはずなのに、少なくない金額のお金を男性に返さなかった結果、ライブを配信していた最中に、男性に刺殺された。

    このような概要だったと思います。

    この事件のポイントの一つは、お金を貸した男性が地方裁判所で勝訴していたため、女性は法的に返金しなければならない状態であったということです。

    にも関わらず、法的決定を無視していました。

    つまり、法律って効力あるの?

    という話です。

    司法で解決しないなら、法律外の方法で解決するしかない。

    加害者がそのように考えたのも、仕方なかったのかもしれません。

    その結果が刺殺。

    つまり、決闘裁判みたいなものだと感じました。

    今後、世の中がさらに戦国時代2.0化していくにつれ、日本の法律が日本人を救済してくれない時期がやってくるかもしれません。

    そんな時代が明日、急にやってくるとしたらどうしますか?

    無防備に、なす術もなく侵略されて命や尊厳を奪われるかもしれません。

    ですが、戦国時代(中世)の世の中は見えない世界の影響力がずっと強い時代でもありました。

    例えば、今回の事件の加害者と被害者に4:事故/事件の霊障がかかっていて、そのマッチングによって起きてしまった可能性が考えられます。

    あるいは、霊障という話では済まず、今回の事件が、令和は中世/戦国時代に戻っていることを人々に示すための重大な出来事であったかもしれません。

    そして、加害者と被害者は共に、この出来事を演じることが今世の宿題に含まれていた

    そのように考えることもできます。

    善悪を極めるのは法律であり、同時に、人それぞれ善悪の基準が異なると思います。

    ですから、他人の揚げ足どりをするように、他人に対して善悪を判断するのではなく、私たちの身の回りで起こる日々の出来事から何を学び、人生の糧にしていくか。

    これこそが、私たちの魂が望む生き方であり、魂磨きの修行になるのでしょう。

    最後に朗報ですが、中世/戦国時代、令和(戦国時代2.0)は見えない世界の影響が大きいことを先ほど述べました。

    いいかえれば、私たちの魂が望む生き方をしやすい時代に戻っています。

    この大波に乗って、今世の宿題を果たす人生にシフトしたいあなたは、ご相談ください。

    お問合せは《こちら》から

  • ただの時間つぶしになっていないか?ーー『消費される文章』と『消費される人生』

    ただの時間つぶしになっていないか?ーー『消費される文章』と『消費される人生』

    こんにちは! あの世とこの世合同会社の代表社員、中山彰仁です!

    なぜ、SNSで大事なことを書いても伝わらないのか。

    主な理由は、至極シンプルです。

    発信者と読者の関係性で、読者の理解度が変わるから。

    私が芸能人や有名人だったり、あなたの推しなら、もっと理解しようと読まれているはずです(笑)

    それともう一つ、私の書き方が悪いから。

    私の思考回路は他人と同じとは限りません。

    ですから、私ならこう書いてあるのを読めば理解できると思っていても、相手には伝わらないことが当然あります。

    そして、相手に伝わらなければ、執筆する私の時間は無駄ですし、読んでくれている読者の時間も無駄です。

    私の投稿内容を理解できる読者を増やすため、試しにAIで編集したこともあります。

    しかしながら、それでも伝わっているとは言い難いです。

    なぜでしょうか?

    SNSの利用者は、消費する娯楽を求めているから。

    これは、文章に限らず、動画などの他のコンテンツも同様です。

    全く同じ内容でも、そのコンテンツから学ぼうする姿勢があるかどうか

    これも、情報の理解度に大きく関係しています。

    読解されないSNSの文章は、消費されるコンテンツに過ぎません。

    数ある時間つぶしの娯楽の中の一つでしかありません。

    ですから、広告もふくめた有象無象の他の情報と同じように消費されています。

    娯楽ですから、ラクして情報に接することができます

    言い換えれば、この文章を読んでいても、ただただ目が滑っているだけです。

    内容の9割が頭に入っていないことでしょう。

    なぜでしょうか?

    それは、消費するのはラクだからです。

    無料のコンテンツから学ぼうとすると、正直しんどいと思います。

    なぜなら、現代人の多くはとても疲れているからです。

    ですから、ラクな消費に流されてしまいます。

    有料のコンテンツなら、元を取ろうとするサンクコスト効果によって、金額に見合った学びを得ようと、情報の理解度は上がると思います。

    もちろん、ラクな道が悪いわけではありません。

    ですが、返報性の原理ではありませんが、消費しているだけで何も生産していない人間は、消費されるだけの情報のように、消費される人生を歩むことでしょう。

    生きているのか死んでいるのかもわからない。

    そんな人生を続けたいなら、この文章も消費して、惰性で過ごせばいいと思います。

    何らかの生産を行なって他人に貢献する人生にシフトしたいなら、生き方を変えてみませんか?

    あなたの生きる目的を果たすことに合致しているなら、ラクなのに生産的な人生になります

    それが本当の樂なのです。

    そうなるよう、人生の方向性を本来の状態に戻していきましょう

    お問い合せは《こちら》