新千夜一夜物語第7話:言霊とお経
神事を受け、陰陽師の話を聞くにつれて青年は宗教にも興味を持ち始めた。彼なりに調べた後、祖母がよく唱えていたお経について、彼は後日質問することにした。
『世の中には、お経を読んでいれば人生がよくなると言っている人もいます。僕も言霊の力を信じていて、お経もその延長ではないかと思っているのですが』
「では、そなたはそのお経を読んでいる人は全員幸せと思っておるのじゃな?
『もちろん、全員ではないと思います。中にはせかせかして疲れているような人もいましたし、勧誘してきた人の方が僕よりも不幸そうだと感じたこともあります』
「そうじゃろう?」
『ですが、“新訳聖書”(“ヨハネによる福音書”)の冒頭に、“はじめに言(ことば)があった。言は神とともにあった。万物は言によってなった。なったもので、言によらずなったものは何一つなかった”という一節を読んだことがありますし、バラモン教ではバラモンが賛歌や祝詞を唱えて神を動かしたという説もあります。そのような点から考えてみても、やはり、言霊の力は存在すると思います』
「ほほう、今回はそれなりに勉強したようじゃな」
『そりゃあ、少しでも幸せにはなりたいので、とりあえずできることはやってみようと思ったんです』
「なるほど、それはなかなか感心な心がけじゃ。しかし、今の質問じゃが、いきなり結論を言ってしまうと、言霊にはたしかに一定の力が宿っていることは否定せんが、最終的に現実世界に影響を及ぼしているのは“身口意”の三つなので、言葉だけに捉われない方がいい」
『今おっしゃった“身口意”とはどういう意味ですか?』
「簡潔に説明すると、身とは行動、口とは言葉、意とは心のことじゃ。そなたが言った“はじめに言葉があった”という話も、わかりやすく“神”という概念がエネルギーとして存在していると仮定すれば、言葉を発する前に“世界を創造しよう”という心があったということを説明していることになる」
『つまり、言葉が初めからあったわけではなく、まずは心が先にあったのですね。そういえば、先生はその人の名前がわからなくても鑑定ができるとおっしゃっていましたが、それは名前つまり、言葉よりも思考している存在というか、心、魂にアクセスしているからなのですね』
「まあ、簡単に言うとそういうことになる」
陰陽師は小さくうなずくと、言葉を続けた。
「そしてそうだということは、夢を叶えたいと思ってご利益がある言葉を繰り返し唱えていても、何もせずに、家で引きこもっているかぎり現実が変わることはないということになる」
『言われてみればそうですね』
陰陽師の言葉に小さく頷く青年。そんな青年を笑顔で眺めつつ、陰陽師は言葉を続けた。
「じゃから、お経に限らず特定のありがたい言葉を繰り返し唱えて幸せになっている人というのは、お経を唱える以外にも何らかの行動をしている人で、幸せそうに見えない人というのは“身”、つまり行動がともなっていない人ということもできるわけじゃ」
『なるほどです。特定の言葉を繰り返し唱えるだけで幸せになるのであれば、全員が幸せになれるはずですもんね。でも、実際にはそうとは言い切れませんものね』
「さらにもう一言つけ加えるとすれば、お経などを唱えることより、何か想定外のことが起きても慌てずに目の前の出来事に対処できるよう“不動心”を身につけておくことが大切となる」
『おっしゃることはわかりました。でも』
青年は反論を試みた。
『お経が今も唱えられているからには、それなりの理由があると思うのですが』
「ふむ。ところでそなたは“般若心経”と“法華経“を知っておるか?」
『“法華経”は詳しくは知りませんが、“般若心経”を毎日唱えていました時期がありましたので、内容についてもそれなりに理解しているつもりですが』
「この二つを唱えている宗派は大乗仏教に分類されておるのじゃが、小乗仏教と大乗仏教の違いについてはまた別の機会にゆっくり話すとして、その二つの大ざっぱな違いくらいは理解しておるのかな」
『その二つについては、ブッダが開いたということ以外、授業で名前を聞いたくらいで詳しくはわかりません』
「まあ、そうじゃろうな。大乗仏教圏である日本や中国では小乗仏教と大乗仏教の区別ができる人間などほとんどいないわけだから、それはそれで致し方ないとしても、“仏教”をブッダの説いた教えと定義するのであれば、“般若心経”も“法華経”もブッダの直接の教えとは何の関係もないということができる」
『え?! 仏教なのだから、ブッダの言葉や教えを受け継いでいるのかと思っていましたが』
「簡潔に説明すると、“般若心経”はブッタの死後880年ほどして龍樹という人間によって創作された経典なのじゃが、“法華経”を始めいわゆる“大乗仏教経典”はすべてこの“般若心経”を下敷きとしておることから、龍樹は“大乗仏教八宗の祖“とも呼ばれているわけじゃ」
「ということは、“般若心経”も“法華経“もブッタの言葉を記録したものではないのですね」
「その通りじゃ。そして“法華経“は端的に言ってしまうと、ブッダをそっちのけにして大日如来・観音菩薩・弥勒菩薩という新たに捜索した神を崇めておるということになるわけじゃよ」
『しかし、肝心のブッダはいったいどこへ行ってしまったのでしょうか…?』
「どこへ行ったのかという話は説明すると長くなるので別の機会に回すが、このような話は大乗仏教だけの話ではなく、多くの宗教にみられる現象で、たとえばキリスト教なども厳密に言えばキリストの言葉ではなく、彼の教えを広めた人間であるペテロ、初期のローマ法王の影響が色濃く反映されておる」
『そうなると、信者の人々は本当の意味での宗教の大元を信じているわけではないのですね…』
「まあ、そういうことじゃ。簡単に言うと、お経にせよ聖書にせよ、結局は誰かがその人にとって“これは素晴らしい”と感じた言葉を自分なりの解釈でありがたがって唱えているわけであって、例えるならそなたが自分にとっての金言をそもそもの意味など気にかけずに繰り返し唱えているようなものなんじゃよ」
『でも、実際にその誰かの言葉を繰り返し唱えることで人生がよくなった人がいるのも事実と言えば事実ですよね?』
「それは“こんなに熱心にお経を読んでいるから自分は大丈夫だ”という安心感であったり、そうやって得た安心感によって現実に立ち向かい、結果として困難を乗り越え自信のようなものが培われたからじゃろう。結果の良し悪しは別として、挑戦し続けている人の方が世間では成功しやすいのではないかの?」
『確かに、そうかもしれません。でも、挑戦し続けているのに報われないのはどうしてなのでしょうか?』
「それには大きく分けて二つの理由がある。一つは先祖霊による障害や天命運とチャクラの乱れが原因であるケース。もし仮に、神事を受けたにもかかわらず報われないとするならば、それはそもそも選択する人生の方向性が間違っているということになる」
『神事が終わっていても、選択する方向性が間違っているということもあるんですね』
「身近な例をあげると、大事なプレゼンや試験があるのに、徹夜で睡眠不足のまま挑んでも成果は出にくいじゃろう?」
『それはもちろんそうです!』
「そして先祖霊以上に大事なことは、少し話が戻るが結局のところ、お経そのものに効果があるかどうかよりも、読み手が“霊能力”持ちかどうかの方が大事なのじゃよ」
『それは、“霊能力”持ちの人がお経を読んだから効果があったということですか?』
「それもそうじゃが、たとえば魂の階級が “1:先導者”かつ“霊能力”持ちでない人間が、その昔賛歌や祝詞を唱えたら天候に変化が起きたという事実を知り、自分もこの賛歌や祝詞を同じように唱えれば天候に変化が起きると思い込み、現代のお経のようにご利益目的で使われるようになったのかもしれんな」
『でも、実際には賛歌や祝詞を唱えても効果はありませんよね? 少なくとも、僕が唱えてもダメな気がします』
「しかし、偶然、天候が変わるタイミングと重なって唱えたら、効果があると信じる人も出てくる可能性も否定はできまいな」
『確かにそうですね。何も知らない人にとっては奇跡が起きたと思って当然だと思います』
「しかし、実際は偶然であって必然ではないし宗教の開祖にかぎってはお経を唱えることで何らかの効果を期待できたのかもしれんが、誰もが同じ効果を期待できると断言するのはどうしても無理がある」
青年はうつむき、表情を曇らせた。毎日口癖のようにお経を唱えていた祖母を思い出したのだろう。
「また別の観点から話をすると、特定の言葉を繰り返し唱えることによって一種の自己暗示・催眠状態になることがある。その場合は本人の心身に対する何らかの働きかけがあることは否定できまい。その言葉がその人にとって幸せをもたらすと思っている言葉ならなおさらじゃな」
『なるほどです。言霊の力もあるのでしょうけど、この言葉を唱えていれば幸せになれると信じて繰り返していれば、ほんとうに幸せになることもあるのでしょうか?』
「そのあたりはケースバイケースじゃな。もしお経を読んでいても何の意味もないとか無駄だと内心で思っていたら、その人にはあまり効果がないじゃろう。しかし、お経を読むことで幸せになると信じ続ければ、また違った結果も出てこよう。つまり、お経を読んでいれば幸せになれるというのは正解でもあり、不正解でもあるわけじゃ」
『お経が人々に幸せをもたらすのではなく、お経を読んでいる人の姿勢次第ということなのですね。でも、結局のところ、幸せになりたい人はどうしたらいいのでしょうか? 僕には“霊能力”はありませんし、ほとんどの人もそんなものは持ってないでしょうし』
「“霊能力”持ちだから偉いとかすごいということではなくて、霊能力の有無もまた今世での役割の違いに過ぎないと考えたほうがよい。やみくもに“霊能力”を手に入れようとしたり現世利益的な意味での幸せを追い求めたりするのではなく、自分は自分なりに今世での魂の修行に取り組むのにベストな肉体、能力を与えられたのだということをしっかりと受け入れ、目の前のことを真剣にたんたんと取り組むことじゃな」
『大事なのは過去の苦しさや未来への不安に囚われることではなく、今の目の前のことにたんたんと取り組むことなんですね』
「そうじゃ。それを“即今・当処・自己”ともいう」
『わかりました。ありがとうございます』
スッキリして帰宅した青年は、まずは部屋に散らかっているゴミを捨てるのだった。