ヒポクラテスの誓いはどこへいった?

こんにちは! あの世とこの世合同会社の代表社員、中山彰仁です!

全ての看護師を責めるつもりは毛頭ありません。

ですが、こういった言動を取る看護師がいたということを、私は忘れません。

「点滴、やめたらいい」

その言葉を発したのは、病床に伏す高齢者を看病していたお客様の祖母に対して、看護師が強い口調で投げかけたものでした。

すでに心身ともに疲弊していたお客様の祖母は、その言葉に従うしかないという気持ちに追い込まれました。

そして、点滴を中止した当日――お客様の祖父は亡くなりました。

この出来事を前に、私はある言葉を思い出さずにはいられませんでした。

「ヒポクラテスの誓い」――医療従事者が命と向き合うとき、その根幹に据えるべき倫理的指針です。

この誓いには、次のような一節があります。

「私は、自分の力と判断の限り、患者の利益のために治療を行う。」

ヒポクラテスの誓い

また、こうも誓われています。

「人の命を軽んじることなく、患者の苦しみをやわらげるため、心を尽くす。」

ヒポクラテスの誓い

看護師は、医師とともに患者の命に寄り添い、痛みや不安を和らげる存在であるはずです。

しかし今回、その言葉は、疲れ切った家族の心を突き刺し、命をつなぐ可能性のあった医療行為を断たせる結果となりました。

もちろん、延命治療の是非は簡単に白黒つけられるものではありません。

時に、患者本人や家族が「自然な最期」を選び取ることもあります。

しかし、その選択は、本当に自分の意思で、納得の上で決断されたものでなければなりません。

もしもその選択が、看護師の不用意な一言により、追い詰められた心の中でなされたものであったとしたら――それは、「ヒポクラテスの誓い」に反する行為であり、命の重さを踏みにじる結果を招いたといえるのではないでしょうか。

私たちがこの出来事から学ぶべきことは、「言葉がどれほど強い力を持つか」ということです。

特に医療従事者の言葉は、患者やその家族の心に、深く、重く響きます。

だからこそ、その一言一言が、命と心を守るものであるよう、細心の注意が求められるのです。

命と向き合う者が、決して忘れてはならないこと。

それは、「人の命に対する畏敬の念」と、「言葉の力を自覚する責任」ではないでしょうか。

ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、私は医師と看護師から、「意識が戻ったら奇跡」と言われていたお客様に対し、一時間氣功施術をしたらお客様の意識が戻ったという体験があります。

この時も、医師や看護師のことを信用しきれないと思っていました。

私自身の皮膚疾患や腎不全に対し、医療行為では何もできず、どうしたら改善するかの助言もできない医師もいました。

この記事を読んだ人の中には、ひょっとしたら、寝たきりで死にゆく命なのだから、点滴を抜いても抜かなくても変わらないのではないか。

そんな風に思った人がいるかもしれません。

ですが、私たちは今世の宿題を果たすために生きています。

他人からみれば寝ているだけで何もしていない時間であっても、ご本人にとっては、過去を振り返り、過去から学ぶ貴重な時間だった可能性があります。

そう。

私たちの魂磨きの修行は時間が長ければいいというものではありません。

ひょっとしたら、死を覚悟してからのわずかな時間の方が、漫然と何年も生きる時間よりも、濃厚な修行になっている可能性が考えられます。

ですから、意思の疎通ができたお客様の祖父は、親族と最後のやりとりをすることで、修行のラストスパートができたかもしれません。

その時間が奪われてしまったことが、私には残念でなりません。

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