新千夜一夜物語第8話:生臭坊主と葬式仏教
「江戸時代に大乗仏教の僧侶が檀家から多額のお金を徴収し始めたが、禅僧たちはそれよりもっと前から高い拝観料を堂々と徴収していたのじゃよ」
『江戸時代より前からですか! ということは、大乗仏教よりも小乗仏教の方がお金にがめつかったのでしょうか?』
「禅僧たちは人間の本質を突き詰めた結果、虚無主義(ニヒリズム)に行き着き、“結局はお金が大事、自分の生活が大事”との結論に達したようじゃな」
『確かに、現代でもお金は必要ですからね。自力で生きていくのであればそのような結論に達するのもわかる気がします』
青年は腕を組み、首をかしげて続ける。
『それにしても、どうして拝観料を高く設定できたのでしょうか? よほど経済力があって、由緒ある仏像や立派な建物や庭を揃えることができなければ拝観料を高くできないと思うのですが』
「実は臨済宗の僧侶は副業を持っていて、そこから大きな収入が別にあったのじゃよ」
『経済的に余裕になれるほどの副業が、当時にはあったのですか?』
「9世紀から18世紀、世界のGDPの25%を占めていた国があるのじゃが、どこかわかるかな?」
腕を組み、しばらく思考した後に青年は口を開いた。
『・・・中国ですか?』
「その通り。中国との貿易は当時の日本にとって重要であり、中国とやりとりするためには中国語に精通している必要があった」
何度もうなずき、納得の意を示す青年。
「また、貿易を行うためには漢文で書かれた貿易文書契約書の類が必要だったわけじゃ。将軍や大名たちがみな漢文に精通していた部下を抱えていたわけではなかったから、“臨済宗”の僧侶たちが彼らに代わって貿易文書の代筆をしていたと言われておる」
『なるほど。それが彼らの副業だったと』
「ただし、副業といってもその額は莫大で、彼らはその収入であのような立派な寺院を次々と造っていったわけじゃな」
『でも、』
青年は首をかしげた。
『そもそも、どうして臨済宗の僧侶たちは漢文に精通していたのでしょうか?』
「先ほども話したように、小乗仏教に最も近いといわれているものの、 “神も仏も信じない。この世に救済はない。だから、己一人、自分自身だけ修行(研鑽)せよ”、が禅宗の教義なのじゃから、彼らは仏典そっちのけで孔子の論語をはじめとした“四書五経”を勉強していた」
『なるほど、それで彼らは漢文に精通しているわけなのですね』
「当時世界一の大国じゃった中国の文化を披歴することは、彼らがエリート中のエリートであったことを示しているとともに、臨済宗の寺院の多くが中国の建築様式を取り入れておったり、読経の際に中国式の朱塗りの赤い椅子に座ったりしておるのも、実はそのような背景からきているわけなのじゃよ」
『なんという皮肉でしょう・・・』
苦笑する青年を見て、陰陽師は笑みを浮かべる。
「そうした中国の文献を必死に勉強することで臨済宗の僧侶たちはやがて鎌倉時代に“五山文学”を確立させていったのじゃが、それだけではなく、手にしたお金で建てた立派な寺院や庭を見学させることで新たにお金を稼ぐ手立てを手にしたわけじゃ」
『そうやって臨済宗の僧侶たちは高級路線になっていき、挙句の果てには“白足袋様”と“様”づけの呼ばれ方をされたと・・・』
青年は小さく溜息をついた。
『しかし』
「なんじゃな」
「もし彼らがそれほど裕福だったのなら、貧しい民衆に対して何らかのことをしてもよかったのではないかと思いますが、それさえもしなかったわけですね」
「学も経済力もある臨済宗の高級インテリどもは、基本的には民衆が嫌いだったようで、“浄土宗(本願寺)”や“日蓮宗”のような大乗仏教の寺が民衆を教化、教育することによって彼らからの寄付で寺を運営していたのに対し、自力でお金を集める方をよしとしたのじゃろうな」
『ある意味それも徹底した自力本願ということなのですね・・・。それにしても、同じ仏教なのに別物のように感じます』
「大乗仏教のように他者を助ける(福祉事業・福祉のための国家論)ことは偽善であり、 “他者を救済することは不可能なので、するべきではない”と悟った臨済宗の僧侶たちは、救済思想の否定として生まれた現実主義(リアリズム)者であるというわけじゃな」
『たしかに。僕としても救いを必要としている人に手を差し伸べたものの、結果的にお互いにとってよからぬ事態になったことがあるので、なんとなくわかる気がします』
「当時の僧侶たちがどのような体験を経てそうした結論に至ったかはわからないが、それなりの理由づけがあったのは間違いなかろう」
過去の出来事に思いを馳せてか、青年はしばらくうつむいて黙っていた。やがて、顔を挙げて口を開く。
『そう言えば、大乗仏教では葬式の際にお経を読むのは、救済されるためと聞いたことがありますが、禅宗のお寺でも葬式の時にはちゃんとお経を上げますよね? あれはどういうことなのでしょうか?』
「そこは他の大乗仏教と同じで、禅宗も檀家制度によって“葬式仏教”に移行していくわけじゃから、葬式をあげるのに当然お経が必要なわけで、お経の功徳など信じてはいないものの他宗から“般若心経”と“観音経”を借りてきたのじゃよ」
『禅宗は救済の祈りを拒絶していたわけですから、葬式のため、お金を稼ぐ手段として割り切っていたわけですね・・・』
「宗教がビジネスになるのは、昔から同じで、開祖以降の宗教の中心を担っているのは“3:ビジネスマン”階級という話に再び結びつくわけじゃよ」
青年は大きく何度もうなずく。
『とてもよくわかりました。それと、エリートと民衆という表現からふと思ったのですが、小乗仏教のように自力でなんとかできる人たちは、魂1〜3で、大乗仏教に救いを求めてくる人たちは、魂4なのでしょうか?』
「全員がそうとは言い切れんが、その傾向は間違いなくあるじゃろうな。小乗仏教や大乗仏教のなかでも禅宗などは“ほんとうの大人の思想”として、鎌倉時代以降、武士階級の支持を受け、新しい思想流派として日本にも根付いた一方、自力でなんとかすることが困難な魂4の大半が、浄土宗などの大乗仏教の説法や、現代でいうところのマンガのような話を聞いて扇動され、様々な一揆を興したのも、ある意味しょうがない話ということができるのじゃろう」
『マンガですか・・・』
青年は苦笑しながらつぶやく。
「その辺の話やブッダについては、長くなるからまた別の機会に話すとして」
陰陽師はグラスに注がれていた水を飲み、一息つく。
「小乗仏教にも大乗仏教にも共通して言えることは、どちらもブッダの本質から外れておるということじゃ。そもそもブッダは、個々人が苦から解放されて解脱することのヒントを、生きている人々に“正しい生き方”を説いていたのに、現代のほとんどの仏教宗派が死者への対応ばかりとなっておる。葬式仏教という言葉などは正に言い得て妙じゃな」
『時代の変化があるとはいえ、本来の教義から遠ざかってしまうことは、なんだか残念な気がします・・・』
「そうはいっても、お布施や葬式を全面的に否定するのではなく、その宗教儀式が本当に効力があるのか否かを見極めて依頼するよう心がけてもらいたいものじゃな」
『僕は先生とご縁をいただけて本当によかったです。心から感謝しています。たまに永代供養に関する広告を見ますが、個人的に先生の神事を受ける方がよかったと思っています』
陰陽師は苦笑して応えた。
「いつも話すように、魂1~4に分かれた人間は、そもそも同質ではない。それに魂の属性3(霊媒体質)と7(唯物論者)は、体感するものがまるで違う。じゃから、何を信じるかは人それぞれでまったくかまわない。わしの話す話を信じるのも信じないのもまったく自由じゃ。そして、お寺や葬式を大切にしている人々を否定するようなことは厳に慎まねばならぬ」
『もちろん、そんなことを他人に口にするようなことは絶対にしませんよ!』
「口に出さないだけでなく、なるべくそうした差別的なものの考えもせんようにできるとベターじゃな」
笑顔で話す陰陽師の言葉を聞きながら、一瞬、体をこわばらせる青年。頭の中では一般の人々の考えを否定していたようだ。
『気をつけます。みなさんの自由意志を尊重し、僕自身は目の前の出来事を魂の修行として真摯に取り組んでいきます』
満足そうに微笑みながら、陰陽師はうなずいた。